ドイツの夜と霧

昨夜遅くに雪が降っていたようです。朝には回りの景色が白くなっていました。こちらでは日本の太平洋側の夏湿冬乾と異なり、夏乾冬湿の天候になります(まぁ部屋の中は暖房が効いているので乾いているのですが)。そのため夜になると薄く靄がかかった感じになり、真夜中には霧となって辺り一面が白くなる、なんてことがよくあります。

「ドイツ」「夜」「霧」のお題を与えられたら、お約束の三題噺としてこれが出て来るのは避けられないところ。
夜と霧 新版

この『夜と霧』については未読だからでしょうか、上の三つのお題からですと普通に「ドイツの冬の夜」といったイメージになります。どのような理由でナチス強制収容所の内幕を書いたノンフィクションに『夜と霧』といった題名をつけたのか、気になったので検索をかけてみると見つかったのが次のページ。

http://www.kashiwashobo.co.jp/new_web/column/rensai/r01-02.html

「拉致」と聞いて、ドイツ史研究者がまず想起するのは旧世紀の「夜と霧」Nacht und Nebelであろう。1941年12月7日(真珠湾の前日!)、ヒトラー国防軍最高司令部長官ヴィルヘルム・カイテル元帥に、フランス、ベルギー、オランダなど占領地の反独抵抗分子を裁判なしで極秘のうちに拉致収容する特別命令を発した。作戦名「夜と霧」である。囚人の生死や所在についてはいかなる照会も受け付けず、行方不明者の消息についても回答は与えられなかった。拉致をわざわざ「布告」した理由は、比較的小規模な実行で最大規模の疑心暗鬼をその社会に生み出すためである。親族や友人と一時的にでも連絡が取れなくなると、人々は拉致の可能性におびえることになった。究極のテロルである。
(中略)
しかし、多くの日本人にとって、「夜と霧」と言えば、やはりヴィクトル・E・フランクル『夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録』(霜山徳爾訳、みすず書房、1961年)だろう。平和教育の定番教材である。だが、すでに1938年第三帝国編入されていたオーストリアフランクルの場合、「夜と霧」は適切ではない。というより、明らかに間違いである。それもそのはず、原題「一心理学者の強制収容所体験」(1947)に、訳者が「強制収容所の全貌をより簡潔に象徴する」として勝手に採用した邦題である。あるいは、アラン・レネ監督の同名映画のヒットにあやかろうとした意図もあったろうか。

佐藤卓己『毒書亡羊記』「第2回 『夜霧』よ、今夜も有難う」より

フランス人のアラン・レネにとって、当時いつ収容所に拉致されるか解らない恐怖があって、送り込まれた収容所ではこんなことが行われていたんだ、ということ(を煽る目的?)でアウシュビッツのドキュメンタリに『夜と霧』と名づけたってところでしょうか。「夜と霧」作戦(反独抵抗分子の拉致)と「ユダヤ人の強制収容」がホントに重なるのか、というのがこの話のポイントとなるところかと。

(追記)
2005年1月27日 ポーランド アウシュビッツ収容所の解放60周年式典